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アイデアが湧きすぎた!? 理解者ゼロでクビ宣告

「俺ってなんかズレてんのかな、、、?うーん…」
 
腕を組みながら歩いての出勤途中、常に頭の中でこの思考がぐるぐる回っていた。
 
たしかに、小学生のときは大人の前で気持ち良く演歌は歌うし、未経験でありながらカナダで庭師はするし。たしかにズレているのかもしれない。
 
「もしかして、心が本当のカナダ人になり日本人と合わなくなったのか?」と思うほど、周りとまったく話が噛み合わない。(笑)
 
23歳の僕は日々そんなことを思いながら障害福祉施設のスタッフとして働いていた。
 
昔の障害福祉は、大きな施設で100〜200人で生活するのが当たり前だったが、WHOが1981年に『国際障害者年(完全参加と平等)』を発表し、大規模な施設は解体され、障がいのある方(利用者)が施設を出てグループホームなどの地域で生活するという運営が主となっていた。障害福祉の作業所にいたっては、利用者さんが通所しているだけでも十分とされていた。
 
カナダから帰国した後の僕の仕事はというと、「その作業所」のいちスタッフだったのである。
 
僕が勤める作業所も例外ではなく、利用者さんはただ座っているだけで良しとされていた。
 
ときどき利用者さんと散歩をすることもあったが、「こんなことで利用者さんはみんな満足してへんやろ」と常に考えていた。
 
そんな中、街の公民館で「七宝焼き体験教室」という貼り紙を目にした。
 
七宝焼きについて調べてみると「これなら利用者さんが自ら作って楽しんでもらえるんじゃないか」と、そんな軽い感じで始めることにした。 
 
早速七宝焼きを作る窯を購入し、ブローチなどを作ってみたら、今まで椅子に座っているだけだった利用者さんが、水を得た魚のように張り切って七宝焼きを楽しそうに作っていくのだ。その光景を見て、僕はとても嬉しかった。
 
毎日一人2個ほど制作していくと、あっという間にたくさんの七宝焼きが溜まっていった。「これをなんとかせねば」と思った僕は、バザーなどで販売してみてはどうかと提案しようとしたが、一旦立ち止まった。
 
これまで僕はさまざまなアイデアを提案したが、なかなか実現に至らなかった過去がある。たとえば「大阪にはこれから海外の旅行客が増えるから、大阪城で利用者さんがツアーコンダクターをしてみてはどうか?」や、僕がカナダにいたとき、現地ではタピオカが流行っていたので「日本でも絶対流行るからタピオカ屋さんをやってみてはどうか?」などだ。
 
ただ、せっかく制作した作品の行き場がなく、どんどん溜まっていく現状をなんとかしなければ!という使命感で「利用者さんの作った七宝焼きを販売させてほしい」と上司に訴え続けたら、一年に一度の古着や不要なものを売るお祭りで、販売させてもらえることになった。
 
すると、七宝焼きのブローチやアクセサリーは予想以上に売れ、大繁盛。
 
「あれ?これめっちゃええちゃうん!?障がいのある利用者さんが自分で作ったものを販売して金稼いでるやん!」
 
このサイクルが僕の中でめちゃくちゃしっくりきた。
 
それから毎週のように「七宝焼きを売りましょうよ!」と上司や同僚に言いまくったが、会社として他にもやることがたくさんあってなかなか実現しなかった。
 
やりたいことができないもどかしさは次第に「僕がここにいる意味がない」そう感じてきた。
 
それは僕にとってはクビになったようなもの。
 
だから、その職場を辞めることにした。
 
「うーん…。福祉向いていないんちゃうかな?」
 
「僕にとって福祉とは?」
 
改めて考えさせられる日々をただ悶々と過ごしていた。